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第23代横綱 大木戸  森右エ門  ( おおきど  もりえもん  ) タイム-ライン

基本情報

最高位 横綱
本名 内田 光蔵
生年月日 明治9年05月13日
出身地 兵庫県
身長 体重 180.0センチ 130.0キロ
所属部屋
改名歴 昭和29年九月 大城戸 平八
明治32年一月 大木戸 森右エ門
初土俵
引退場所 大正3年一月
第23代横綱。大坂相撲史上では2人目の横綱である。

日清戦争の従軍中に知り合った大坂力士の紹介で、第13代湊由良右衛門(元小結・黒柳松治郎)に入門し、1896年9月に大城戸平八(光蔵)を名乗り初土俵を踏む。1898年10月に三段目昇進の際、大木戸と改名した。1903年1月に入幕を果たす。
大坂相撲で最初の公認横綱・若島権四郎に唯一、太刀打ちできる力士とされていた。小結であった1904年1月、さらに関脇へと上がった同年5月と連続して若島を破り、翌1905年1月には大関に昇進した。大坂相撲の本場所で若島に2回勝利したのは大木戸のみである。この入幕から大関昇進の時期には東京相撲との合併興行と巡業が行われており、東京方の常陸山谷右エ門に目をかけられ、稽古をつけられていたことがスピード出世につながった。大木戸自身も常陸山にかわいがられていた由縁で何度か東京相撲への加入を決意したが、大坂相撲の看板力士であるため、協会首脳に拝み倒され、断念する結果となった。この事態が、数年後の横綱免許をめぐるトラブルの遠因ともなる。

若島が負傷によって現役引退を余儀なくされた後の大坂相撲では最強を誇り、両手突きの威力は「2発で相手は土俵の外」とまで言われ、太刀山峯右エ門を彷彿とさせた。大関だった大木戸は1908年6月場所から1909年5月場所まで3場所連続の9戦全勝優勝も記録した

この成績を見た大坂相撲は、1909年に吉田司家へ横綱免許の授与を申請したが、吉田司家は横綱免許をすぐに授与せず、同年11月開催する「博多での合併興行の結果で昇進か否か判断したい」と回答してきた。大木戸はこの合併興行で3勝1敗3引分3休という不本意な成績を残したことで横綱昇進が遠退いたと思われた矢先、仲介者の後押しで大坂相撲は吉田司家へ横綱免許の授与を再申請するが、今度は吉田司家から申請書に「東京相撲の横綱による加判」を求めた。当時、常陸山によって大坂相撲の有力力士を次々と東京相撲へ引き抜かれていた背景があり、大坂相撲は東京相撲を毛嫌いしていたために加判に難色を示し、引退したばかりの若島の加判だけで申請を行おうとしたことで、大坂相撲と吉田司家の交渉は決裂した。

その後、大坂相撲は吉田司家を無視して住吉神社と共謀し、1910年1月6日に大木戸に対する横綱免許を授与、大木戸は奉納横綱土俵入りを行った。これを知った吉田司家は無断で授与した大坂相撲に激怒して破門を宣告したほか、東京相撲も大坂相撲に対して絶縁宣言を叩きつける大事件へ発展した。このままでは大木戸は非公認横綱とされるままだったが、1912年12月に大坂相撲は東京相撲・吉田司家両者へ正式に謝罪し、大木戸への横綱免許の授与を改めて申請した。吉田司家は「大木戸の横綱撤回(ただし、大阪・熊本以外での地方巡業では横綱を黙認)」「今後、大坂相撲が横綱免許を申請する際は、東京相撲の横綱は加判を止めて口添えを行うこと」を条件とした。
大坂相撲はこれを承認したことで東京相撲も絶縁宣言を撤回、大木戸の横綱免許が改めて申請され、既に36歳で全盛期を過ぎたとはいえ、これでようやく公認横綱となった。

しかし、公認横綱として最初の本場所である1913年1月は5勝3敗2休と振るわず、同年4月に呉で開催された東京大坂合併興行では、東京相撲の伊勢ノ濱慶太郎との取組中にめまいがしたという。さらに明るい場所で電気を付けようとしたために眼科へ担ぎ込まれ、さらに呉海軍病院で検査を受けたところ、脳溢血と判明した。すぐに手術を行って一命は取り留めたが半身不随になってしまい、このような状態では現役続行など出来る筈が無いため、同年5月場所と1914年1月場所を全休したのを最後に現役を引退した。

大坂相撲の本場所における十両昇進以降の成績を示す。
場所 地位 成績 備考
明治35年(1902年)6月場所 西十両1 6勝1敗1分2休
明治36年(1903年)1月場所 西前頭6 6勝3敗1休
明治36年(1903年)5月場所 西前頭1 6勝2敗2休
明治37年(1904年)1月場所 西小結 8勝0敗1分1休 優勝相当
明治37年(1904年)5月場所 西関脇 8勝0敗1預1休 優勝相当(2)
明治38年(1905年)1月場所 西大関 9勝0敗1休 優勝相当(3)
明治38年(1905年)6月場所 西大関 6勝1敗2分1休
明治39年(1906年)2月場所 西大関 9勝0敗1休 優勝相当(4)
明治39年(1906年)5月場所 西大関 8勝1敗1休 優勝相当(5)
明治40年(1907年)1月場所 東大関 3勝1敗2預4休
明治40年(1907年)6月場所 東大関 7勝0敗1預2休
明治41年(1908年)1月場所 東大関 7勝2敗1休
明治41年(1908年)6月場所 東大関 9勝0敗1休 優勝相当(6)
明治42年(1909年)1月場所 東大関 9勝0敗1休 優勝相当(7)
明治42年(1909年)5月場所 東大関 9勝0敗1休 優勝相当(8)
翌年1月に大坂相撲が独断で横綱免許
明治43年(1910年)1月場所 東大関横綱 6勝2敗1分1休
明治43年(1910年)5月場所 東大関横綱 8勝1敗1休 優勝相当(9)
明治44年(1911年)2月場所 東大関横綱 7勝1敗1分1休 優勝相当(10)
明治44年(1911年)9月場所 東大関横綱 6勝2敗2休
明治45年(1912年)5月場所 東大関横綱 7勝1敗1分1休 場所後12月に吉田司家から横綱免許
大正2年(1913年)1月場所 東大関横綱 5勝3敗2休
大正2年(1913年)5月場所 東大関横綱 10休
大正3年(1914年)1月場所 東横綱 10休 引退

戦歴   休=休み ム=無効 預=預かり 分=引き分け

(「無効」「預かり」「引き分け」は現在はありません)

戦歴 勝率 休ム預分 取組 在位場所
生涯 0 0 0.000 0休 0 0
幕内 0 0 0.000 0休 0 0
0優勝  0準優勝  0技能賞  0敢闘賞  0殊勲賞  0金星 
横綱 0 0 0.000 0休 0 0
0優勝  0準優勝 
大関 0 0 0.000 0休 0 0
0優勝  0準優勝 
関脇 0 0 0.000 0休 0 0
0優勝  0準優勝  0技能賞  0敢闘賞  0殊勲賞 
小結 0 0 0.000 0休 0 0
0優勝  0準優勝  0技能賞  0敢闘賞  0殊勲賞 
前頭 0 0 0.000 0休 0 0
0優勝  0準優勝  0技能賞  0敢闘賞  0殊勲賞 
十両 0 0 0.000 0休 0 0
0優勝  0準優勝 
幕下 0 0 0.000 0休 0 0
0優勝  0準優勝 
三段目 0 0 0.000 0休 0 0
0優勝  0準優勝 
序二段 0 0 0.000 0休 0 0
0優勝  0準優勝 
序ノ口 0 0 0.000 0休 0 0
0優勝  0準優勝 
前相撲 0場所