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第20代横綱 梅ヶ谷  藤太郎  ( うめがたに  とうたろう  ) タイム-ライン

基本情報

最高位 横綱
本名 押田 音次郎 → 小江 音松
生年月日 明治11年3月11日
出身地 富山県
身長 体重 168.0センチ 158.0キロ
所属部屋
改名歴 大正2年五月 梅ヶ谷 藤太郎
大正2年一月 梅ヶ谷 峰右エ門
明治35年一月 梅ヶ谷 藤太郎
明治25年六月 梅ノ谷 音松
初土俵 明治25年六月
引退場所 大正4年六月
1878年に、現在でいう「富山の薬売り」である売薬商の四男として生まれる(誕生日には異説もある)。
1891年に西ノ海嘉治郎 (初代)・劔山谷右エ門 (2代)の一行が富山県へ巡業に来た際、恵まれた体格の少年を見つけた劔山から熱心な勧誘を受け、雷部屋へ入門、早くも同年1月に初土俵を踏んだ。
師匠・雷(元横綱・初代梅ヶ谷)の「ワシ(梅ヶ谷)の弟子ということで四股名は“梅ノ谷”だ」という発言で四股名はあっさりと決定、番付には「梅ノ谷 音松」と書かれた。

当時はまだ満12歳という子供ながら英才教育を受け、とりわけ鬼ヶ谷才治からの指導が特に熱心だった。その甲斐があって三段目での単独土俵入りが許されたほか、梅ノ谷の錦絵も発売、幕下時代では早くも横綱免許授与に備えて横綱土俵入りの稽古までしていたという、現在では全く考えられない英才教育だった。

1898年1月で新入幕を果たすと、この場所で小錦八十吉 (初代)から金星を獲得した。同年5月場所も小錦八十吉から金星を獲得するなど「小錦キラー」ぶりを発揮した。次の1899年1月には早くも小結、5月で関脇に昇進し、この場所6勝2敗1分と勝ち越したものの、翌1900年1月1度小結に降格するが、次の5月には関脇を飛び越えて大関に昇進した。
大関昇進が決定すると雷の現役名「梅ヶ谷 藤太郎」の継承を申し出たが、雷は「いま(梅ヶ谷を)襲名したら横綱になった時に何を名乗るつもりだ?」と時期尚早を唱えた。

しかし、1902年1月から「梅ヶ谷 藤太郎(2代)」を襲名し、梅ヶ谷の名に恥じぬ好成績を挙げる。1903年5月場所9日目(当時は1場所10日、ただし幕内力士は千秋楽は出場しない)に同じく常陸山谷右エ門と全勝対決を行い、敗れはしたものの、この一戦で勝利して横綱免許授与が決まった常陸山の「梅ヶ谷関と一緒にお願いします」という申し出によって、梅ヶ谷も吉田司家から横綱免許を授与された。
24歳6ヶ月での昇進は当時の最年少記録だった。横綱土俵入りは雲龍型を選択し、現在まで受け継がれている「雲龍型の土俵入りの開祖」とされ、梅ヶ谷の土俵入りの様子を撮影した映像も現存している。

現在でも短躯肥満はあまり長持ちする体格ではないと言われているが、横綱を実に12年間(同時に昇進した常陸山より1年長かった)も務め、常陸山と共に「梅常陸時代」と呼ばれる明治時代後期の相撲黄金時代を築き上げた。旧・両国国技館の開館後に優勝した経験はないが、長年の功績を称えられたことで、1915年の引退時には優勝額に相当するものが贈呈された。

引退後は雷の廃業に伴い、年寄・雷並びに雷部屋を継承したが、先代・雷より早い1927年9月2日に死去。49歳没。弟子は弟弟子だった玉椿憲太郎が引き取ったものの、江戸時代から続く名門だった雷部屋は梅ヶ谷を最後に消滅した。

戦歴   休=休み ム=無効 預=預かり 分=引き分け

(「無効」「預かり」「引き分け」は現在はありません)

戦歴 勝率 休ム預分 取組 在位場所
生涯 201 37 0.845 141休 3預 48分 238 47
幕内 168 27 0.862 116休 2預 47分 195 36
0優勝  0準優勝  0技能賞  0敢闘賞  0殊勲賞  2金星 
横綱 90 13 0.874 99休 1預 37分 103 24
0優勝  0準優勝 
大関 48 6 0.889 12休 4分 54 7
0優勝  0準優勝 
関脇 6 2 0.750 1休 1分 8 1
0優勝  0準優勝  0技能賞  0敢闘賞  0殊勲賞 
小結 12 3 0.800 2休 3分 15 2
0優勝  0準優勝  0技能賞  0敢闘賞  0殊勲賞 
前頭 12 3 0.800 2休 1預 2分 15 2
0優勝  0準優勝  0技能賞  0敢闘賞  0殊勲賞 
十両 15 4 0.789 0休 1分 19 2
0優勝  0準優勝 
幕下 10 2 0.833 7休 1預 12 2
0優勝  0準優勝 
三段目 8 4 0.667 18休 12 3
0優勝  0準優勝 
序二段 0 0 0.000 0休 0 1
0優勝  0準優勝 
序ノ口 0 0 0.000 0休 0 3
0優勝  0準優勝 
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