第11代横綱 不知火 光右エ門 ( しらぬい こうえもん ) タイム-ライン
基本情報

最高位 | 大関 |
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本名 | 原野 峰松 → 近久 峰松 |
生年月日 | 文政8年3月3日 |
出身地 | 熊本県 |
身長 体重 | 177.0センチ 120.0キロ |
所属部屋 | 境川 |
改名歴 |
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初土俵 | 嘉永3年十一月 |
引退場所 | 明治2年十一月 |
同郷の力士である不知火諾右衛門の弟子となり、大阪相撲での修行を経て江戸に出て、境川部屋門下となる。境川部屋から1850年11月場所に殿(しんがり) 峯五郎の四股名で初土俵を踏む。その後は熊本藩の抱え力士となり、1856年11月場所で新入幕を果たし、翌年に「不知火 光右衛門」と改名した。 1862年3月場所で大関に昇進すると、この場所に発生した「小柳殺し」(前頭小柳平助殺害事件)によって出場を辞退するが、翌年3月場所で吉田司家から横綱免許を授与された。1866年4月場所4日目に足取り名人として有名だった両國梶之助(伊勢ヶ濱)の足を取って勝利した際は、花柳界で「足を取る相撲上手の両國関も足を取られてすってんころりん」と唄われた。 1869年11月場所(全休)を最後に現役を引退した。引退後は古巣・大阪相撲へ戻って下の名を「諾右衛門」と改名、1870年から3年に渡って横綱土俵入りのみを披露した。現役中から行っていた横綱土俵入りが「白鶴の翼を張れる如し」と形容される程に見事だったためと伝わる。また、年寄・不知火(初代)を襲名した。1879年2月24日に死去、53歳没。
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戦歴 休=休み ム=無効 預=預かり 分=引き分け
(「無効」「預かり」「引き分け」は現在はありません)
戦歴 | 勝 | 負 | 勝率 | 休ム預分 | 取組 | 在位場所 |
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生涯 | 168 | 50 | 0.771 | 79休 12預 16分 | 218 | 38 |
幕内 | 119 | 35 | 0.773 | 76休 9預 15分 | 154 | 27 |
0優勝 0準優勝 0技能賞 0敢闘賞 0殊勲賞 0金星 | ||||||
横綱 | 0 | 0 | 0.000 | 0休 | 0 | 0 |
0優勝 0準優勝 | ||||||
大関 | 72 | 20 | 0.783 | 58休 2預 7分 | 92 | 16 |
0優勝 0準優勝 | ||||||
関脇 | 17 | 8 | 0.680 | 8休 2預 2分 | 25 | 4 |
0優勝 0準優勝 0技能賞 0敢闘賞 0殊勲賞 | ||||||
小結 | 14 | 1 | 0.933 | 3休 2分 | 15 | 2 |
0優勝 0準優勝 0技能賞 0敢闘賞 0殊勲賞 | ||||||
前頭 | 16 | 6 | 0.727 | 7休 5預 4分 | 22 | 5 |
0優勝 0準優勝 0技能賞 0敢闘賞 0殊勲賞 | ||||||
十両 | 12 | 3 | 0.800 | 3休 2預 | 15 | 3 |
0優勝 0準優勝 | ||||||
幕下 | 37 | 12 | 0.755 | 0休 1預 1分 | 49 | 8 |
0優勝 0準優勝 | ||||||
三段目 | 0 | 0 | 0.000 | 0休 | 0 | 0 |
0優勝 0準優勝 | ||||||
序二段 | 0 | 0 | 0.000 | 0休 | 0 | 0 |
0優勝 0準優勝 | ||||||
序ノ口 | 0 | 0 | 0.000 | 0休 | 0 | 0 |
0優勝 0準優勝 | ||||||
前相撲 | 0場所 |