第18代横綱 大砲 万右エ門 ( おおづつ まんえもん ) タイム-ライン
基本情報
最高位 | 横綱 |
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本名 | 角張 万次 |
生年月日 | 明治2年11月28日 |
出身地 | 宮城県 |
身長 体重 | 197.0センチ 134.0キロ |
所属部屋 | 尾車 |
改名歴 |
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初土俵 | 明治20年一月 |
引退場所 | 明治41年一月 |
子供の時から身体が大きく怪力で、13歳で四斗俵を左右に軽々と提げて歩いた。この恵まれた体格を持つ少年の噂を聞いた伊勢ノ海部屋の元力士の夫人に見出され、1884年の春に上京して尾車部屋へ入門した。同年5月場所、故郷に因んだ「三沢滝(みさわたき)」の四股名で初土俵を踏んだ。入門当初は「コンニャク」と揶揄されるほど足腰が弱く、初土俵から4場所連続で前相撲から抜けられなかったが、1886年6月場所、師匠の初代尾車が勧進元になった際に、ようやくお情け(いわゆる'お蔭出世')で序ノ口昇進を認めてもらい、1887年1月場所に序ノ口に上がった。1888年には「大砲」(大炮と名乗っていた時期もあった)に改名し、以降成績が安定し、1892年1月場所新十両。 1892年6月場所に新入幕を果たして3勝6敗と歯が立たなかったが、その身体の大きさなのか周囲の崩れに助けられたのか、負け越しにも関わらず翌場所は小結へ昇進した。当時はまだ大きな体は興業の目玉になるという江戸時代からの観衆が抜け切っていなかった。1899年5月場所に新大関となり、4場所務めて全休1回・途中休場も1回あったが、大関では無敗のまま吉田司家から横綱免許を授与された。横綱免許を獲得した折に止め名であるはずの「谷風梶之助」の襲名を勧められたが、本人は「笑い者になりたくない」と固辞した。 1902年5月場所には8勝1分の好成績を残したが、陸軍の砲兵に志願して、1903年5月場所から3場所全休、帰って来た時には持病のリューマチを悪化させていた。1908年1月場所限りで現役引退し、引退後は年寄・待乳山を襲名して待乳山部屋を経営した。後に小結まで昇進する光風貞太郎が門下だったが、光風の十両昇進を見ることなく、1918年5月27日に背中の腫れ物を手術した後に発症した糖尿病で死去した。48歳没。
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戦歴 休=休み ム=無効 預=預かり 分=引き分け
(「無効」「預かり」「引き分け」は現在はありません)
戦歴 | 勝 | 負 | 勝率 | 休ム預分 | 取組 | 在位場所 |
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生涯 | 130 | 35 | 0.788 | 160休 4預 54分 | 165 | 43 |
幕内 | 98 | 29 | 0.772 | 138休 4預 51分 | 127 | 32 |
0優勝 0準優勝 0技能賞 0敢闘賞 0殊勲賞 2金星 | ||||||
横綱 | 34 | 7 | 0.829 | 68休 2預 29分 | 41 | 14 |
0優勝 0準優勝 | ||||||
大関 | 14 | 0 | 1.000 | 19休 2預 5分 | 14 | 4 |
0優勝 0準優勝 | ||||||
関脇 | 15 | 4 | 0.789 | 14休 7分 | 19 | 4 |
0優勝 0準優勝 0技能賞 0敢闘賞 0殊勲賞 | ||||||
小結 | 17 | 4 | 0.810 | 32休 7分 | 21 | 6 |
0優勝 0準優勝 0技能賞 0敢闘賞 0殊勲賞 | ||||||
前頭 | 18 | 14 | 0.563 | 5休 3分 | 32 | 4 |
0優勝 0準優勝 0技能賞 0敢闘賞 0殊勲賞 | ||||||
十両 | 8 | 1 | 0.889 | 0休 1分 | 9 | 1 |
0優勝 0準優勝 | ||||||
幕下 | 11 | 4 | 0.733 | 10休 2分 | 15 | 3 |
0優勝 0準優勝 | ||||||
三段目 | 9 | 0 | 1.000 | 5休 | 9 | 2 |
0優勝 0準優勝 | ||||||
序二段 | 4 | 1 | 0.800 | 7休 | 5 | 2 |
0優勝 0準優勝 | ||||||
序ノ口 | 0 | 0 | 0.000 | 0休 | 0 | 0 |
0優勝 0準優勝 | ||||||
前相撲 | 3場所 |