第21代横綱 若嶋 大五郎 ( わかしま だいごろう ) タイム-ライン
基本情報
最高位 | 前頭七枚目 |
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本名 | 高橋 権四郎 → 加藤 権四郎 |
生年月日 | 明治9年1月19日 |
出身地 | 千葉県 |
身長 体重 | 178.0センチ 107.0キロ |
所属部屋 | 友綱 |
改名歴 |
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初土俵 | 明治24年五月 |
引退場所 | 明治31年五月 |
東京相撲の元大関若嶌久三郎の楯山部屋へ入門して、松若大五郎の四股名で1890年に前相撲から初土俵を踏む。 1891年に岐阜県大垣を巡業中に濃尾地震と遭遇し、若島を助け出した兄弟子の楯甲久四郎は崩れた家屋の下敷きになり圧死した。その後、1896年1月に入幕した際に、濃尾地震で亡くした兄弟子の四股名だった楯甲へ改名し、前頭7枚目まで昇進した。 1897年から若島(当初は若島大五郎)を継いだが、同年から天然痘を発症して巡業でも勝てなくなり、さらに色男で芸者から大変な人気があったことから人気に溺れて成績も上がらず、1898年に脱走・大坂相撲へ加入した。東京での相撲はここまでとなる。 当時大坂相撲には小結若嶌幸右エ門がおり、通常であれば四股名が重複する際には格下が改名して譲る所を、格上である小結若嶌が秀の海と改名する程期待を集めた。(秀の海はのち大関) 大坂相撲加入後は心機一転して頭角を表し、1901年5月に大関、1903年1月に五条家から横綱免許を受け、1905年4月に大坂相撲の力士として初めて吉田司家から横綱免許を授与された。東京相撲では大した実績が無いのに第21代横綱として今も引き継がれているのはその為である。 大坂相撲では最強の力士で、2敗を喫した大木戸森右エ門以外の力士はほとんど問題にしなかった。突っ張りに大変な威力があり、右差しからの寄りに蹴手繰りなどがある派手な取り口だった。東京相撲との合併相撲では常陸山谷右エ門に分が悪かったが、大砲万右エ門・梅ヶ谷藤太郎 (2代)には互角に取る実力を見せ、大坂相撲復興の第一人者となっていた。 1905年9月、巡業中に自転車と衝突した弾みで側溝へ転落して頭を負傷し、これが元で四股を踏めなくなり無念の引退を余儀なくされた。 |
戦歴 休=休み ム=無効 預=預かり 分=引き分け
(「無効」「預かり」「引き分け」は現在はありません)
戦歴 | 勝 | 負 | 勝率 | 休ム預分 | 取組 | 在位場所 |
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生涯 | 38 | 37 | 0.507 | 47休 1預 6分 | 75 | 15 |
幕内 | 13 | 26 | 0.333 | 16休 1預 4分 | 39 | 6 |
0優勝 0準優勝 0技能賞 0敢闘賞 0殊勲賞 0金星 | ||||||
横綱 | 0 | 0 | 0.000 | 0休 | 0 | 0 |
0優勝 0準優勝 | ||||||
大関 | 0 | 0 | 0.000 | 0休 | 0 | 0 |
0優勝 0準優勝 | ||||||
関脇 | 0 | 0 | 0.000 | 0休 | 0 | 0 |
0優勝 0準優勝 0技能賞 0敢闘賞 0殊勲賞 | ||||||
小結 | 0 | 0 | 0.000 | 0休 | 0 | 0 |
0優勝 0準優勝 0技能賞 0敢闘賞 0殊勲賞 | ||||||
前頭 | 13 | 26 | 0.333 | 16休 1預 4分 | 39 | 6 |
0優勝 0準優勝 0技能賞 0敢闘賞 0殊勲賞 | ||||||
十両 | 6 | 2 | 0.750 | 1休 1分 | 8 | 1 |
0優勝 0準優勝 | ||||||
幕下 | 10 | 6 | 0.625 | 13休 1分 | 16 | 3 |
0優勝 0準優勝 | ||||||
三段目 | 7 | 1 | 0.875 | 12休 | 8 | 2 |
0優勝 0準優勝 | ||||||
序二段 | 2 | 2 | 0.500 | 5休 | 4 | 2 |
0優勝 0準優勝 | ||||||
序ノ口 | 0 | 0 | 0.000 | 0休 | 0 | 1 |
0優勝 0準優勝 | ||||||
前相撲 | 0場所 |