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第30代横綱 西ノ海  嘉治郎  ( にしのうみ  かじろう  ) タイム-ライン

基本情報

最高位 横綱
本名 松山 伊勢助
生年月日 明治23年11月2日
出身地 鹿児島県
身長 体重 185.0センチ 116.0キロ
所属部屋 井筒
改名歴 大正13年一月 西ノ海 嘉治郎
大正3年一月 源氏山 大五郎
明治43年一月 源氏山 伊セ介
初土俵 明治43年一月
引退場所 昭和3年十月
鹿児島県西囎唹郡西国分村(現・鹿児島県霧島市)出身。第30代横綱。

子供の時から剛力で鳴り響いたため、二代目西ノ海嘉治郎に見出されたことから上京、鹿児島県出身の力士が多く所属する井筒部屋に入門した。

1910年1月場所で源氏山と名乗って初土俵を踏むと順調に昇進し、1916年1月場所に新入幕を果たすとこの場所は9勝1敗の好成績で、1918年5月場所で関脇に昇進する。

最初は出羽海部屋方に所属して優勝旗手も4回務めていたが、上に大錦卯一郎・栃木山守也という横綱が存在していたので、バランスをとるために1922年1月場所で大関昇進と同時に連合側へ回された。

その後、三河島事件の引責で大錦卯一郎が土俵を去って横綱が栃木山守也だけとなり、興行上の観点から再度、東西に横綱一人ずつを並び立てたいという事情が発生した。源氏山の昇進前の成績は1922年1月場所が7勝3敗、同年5月場所は腰骨挫傷によって全休、1923年1月場所こそ千秋楽に栃木山守也と引き分けて8勝1敗1分(優勝同点)だった。さらに横綱昇進を否定される一番の原因は幕内最高優勝(優勝相当成績)が全く無いことで、それだけに横綱審議委員会が存在して昇進基準内規も定められている現在から見ればとても考えられない横綱昇進だった。
吉田司家も源氏山の横綱免許申請を聞いた際には「あまりにも時期尚早」と断固拒否したが、最後は東京大相撲協会の説得に「(源氏山の)将来を期待して」と承認された。

横綱昇進後1場所のみ「源氏山」を名乗ったが、翌場所から3代・西ノ海嘉治郎の名を継ぐという珍しい改名をしている。

関東大震災後の1924年1月場所は東京相撲が東京を離れて名古屋の仮設国技館で興行が行われたが、西ノ海は休場(ボイコットではない)1925年5月場所限りで栃木山守也が引退した場所では出羽海方の総崩れが起き、9勝2敗で初優勝を果たして横綱の面目を保った。

ところが、同年開催された東西合併連盟大相撲で栃木山守也の横綱土俵入りに付き従って引き上げる途中で心臓発作を起こして倒れ、その後遺症が最後まで残ったことで活躍した場所が非常に少なく、横綱在位15場所で皆勤は上記の優勝1回を含めて僅か3場所だった。その3場所こそ9勝2敗だったが、全休6場所・途中休場6場所、昭和以降は中耳炎・神経痛・睾丸炎などの負傷も多く、1度も皆勤が無かった。

この間の8場所連続休場は、その後2017年から2018年にかけて稀勢の里寛がタイ記録で並ぶまで昭和以降の最多であった。

東西合同以後は前述の通り休場を繰り返すばかりで好成績も無いが、1928年1月場所で大ノ里萬助との対戦で負傷、翌日から休場して常陸岩英太郎に不戦勝を与えたところ、常陸岩と三杉磯善七が優勝同点になり、上位の常陸岩が優勝を決めたことで騒動に発展した。

1928年10月場所限りで引退。

戦歴   休=休み ム=無効 預=預かり 分=引き分け

(「無効」「預かり」「引き分け」は現在はありません)

戦歴 勝率 休ム預分 取組 在位場所
生涯 176 69 0.718 121休 2預 4分 244 42
幕内 134 60 0.691 116休 2預 2分 193 30
1優勝  4準優勝  0技能賞  0敢闘賞  0殊勲賞  1金星 
横綱 49 19 0.721 95休 1預 67 15
1優勝  1準優勝 
大関 15 4 0.789 10休 1分 19 3
0優勝  1準優勝 
関脇 17 12 0.586 0休 1預 29 3
0優勝  0準優勝  0技能賞  0敢闘賞  0殊勲賞 
小結 12 5 0.706 3休 17 2
0優勝  0準優勝  0技能賞  0敢闘賞  0殊勲賞 
前頭 41 20 0.672 8休 1分 61 7
0優勝  2準優勝  0技能賞  0敢闘賞  0殊勲賞 
十両 10 2 0.833 0休 1分 12 2
1優勝  0準優勝 
幕下 13 1 0.929 5休 1分 14 4
1優勝  0準優勝 
三段目 5 0 1.000 0休 5 1
0優勝  0準優勝 
序二段 11 4 0.733 0休 15 3
1優勝  0準優勝 
序ノ口 3 2 0.600 0休 5 1
0優勝  0準優勝 
前相撲 1場所