第14代横綱 境川 浪右エ門 ( さかいがわ なみえもん ) タイム-ライン
基本情報
最高位 | 大関 |
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本名 | 宇田川 政吉 → 市川 政吉 → 市川 浪右衛門 |
生年月日 | 天保12年4月8日 |
出身地 | 千葉県 |
身長 体重 | 170.0センチ 128.0キロ |
所属部屋 | 境川 |
改名歴 |
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初土俵 | 安政4年十一月 |
引退場所 | 明治14年一月 |
13歳で江戸・新川(現:東京都中央区新川)にあった酒問屋「小西屋」に奉公へ出たが、四斗樽を楽々と運ぶ政吉を見た相撲好きの主人が力士転向を熱心に勧め、境川部屋に入門、1857年11月場所で初土俵を踏んだ。四股名の「小西川」は最初に奉公へ出た小西屋から付けたもので、後に四方山と改名した際は、小西屋の得意先で化粧廻しを新調した人物が経営する酒屋の屋号「四方屋」から付けたものだった。 小兵にも関わらず太鼓腹・怪力で初土俵から順調に出世していき、1867年4月場所の新入幕(同時に「増位山 大四郎」と改名)を経て1869年11月場所後に大関へ昇進、年寄境川二枚鑑札となり「境川 大四郎」と改名、翌場所には「境川 浪右衛門」を襲名した。1877年には東京・麻布の島津邸で明治天皇の天覧相撲が開催される予定だったため、同年2月に五条家から横綱免許が授与されたほか、吉田司家からも故実門人へ加えられたが、西南戦争によって天覧相撲が中止された。吉田善門は西南戦争の西郷軍に対して各地を転戦した末に降伏したため、吉田司家から境川へ対する横綱免許が授与できず、1878年2月にようやく吉田司家からも横綱免許の授与を承認する形が取られた。 幕内時代はどんな対戦相手でもいきなり破らず、十分に相撲を取らせた上で勝負に出るので、対戦相手は境川に敗れても土俵態度に好感を持ったという。こうした余裕の取り口から引き分けが非常に多く、全勝での優勝相当成績は無かった。1881年1月場所限りで現役を引退し、年寄・境川専任となった。1887年9月16日に死去、46歳没。
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