第26代横綱 大錦 夘一郎 ( おおにしき ういちろう ) タイム-ライン
基本情報

最高位 | 横綱 |
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本名 | 細川 卯一郎 |
生年月日 | 明治24年11月25日 |
出身地 | 大阪府 |
身長 体重 | 176.0センチ 142.0キロ |
所属部屋 | 出羽海 |
改名歴 |
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初土俵 | 明治43年一月 |
引退場所 | 大正12年一月 |
大阪府大阪市中央区出身。第26代横綱。 1891年に大阪府で宮師の長男として生まれる。当時の力士としては珍しく旧制中学校(天王寺中学校)出身で、非常に頭が良かった。さらに運動万能だったことから陸軍幼年学校を受験したが、体重超過で不合格となった。ある日、常陸山谷右エ門に対してローマ字で入門を願う手紙を書いたところ、その返事もローマ字で書かれていたことに感動して出羽海部屋へ入門した。 1910年1月場所に初土俵を踏む。四股名は「故郷である大阪に錦を飾れ」との意味を込めて「大錦」に決まったが、当時は大坂相撲に大錦大五郎が存在しているのを承知で名付けたため、当の大錦大五郎は不快感を持っていたと伝わる。 1915年1月場所に新入幕を果たし、大蛇潟粂藏に敗れただけの8勝1敗1休で優勝旗手を務めた。翌場所は小結として出場し、太刀山峯右エ門との全勝対決で敗れたことで優勝掲額は果たせなかったものの、9勝1敗の好成績を残して連続旗手を務め、入幕3場所目には関脇を飛び越して大関に昇進した。 1917年1月場所の千秋楽では全勝のまま太刀山峯右衛門と再度対戦し、太刀山の化粧立ちに乗じて速攻で寄り切って幕内初優勝(優勝掲額)を全勝で決めるとともに、場所後の横綱昇進を決定的にした。 優勝が決定した瞬間の熱狂は現在の常識ではまず考えられないものであり、帯や羽織、座布団に加えて灰皿や火鉢、蜜柑も土俵に投げ込まれ、さらに興奮の余り土俵に上って逆立ちをする者や大錦に泣きながら飛び付く者まで現れたと伝わる。 それだけ太刀山が圧倒的に強かったことを表す逸話である。 太刀山はこれが最後の取組となり、横綱の世代交代を象徴する一番でもある。 入幕から僅か5場所目での横綱昇進は当時の最速記録で、現行の制度上では今後も破られることが無いと思われる記録である。横綱昇進に際して大錦は「横綱に推薦、免許をいただきありがとうございました。横綱の名を汚さぬよう、相撲界のために努力します」という、今でいう横綱昇進伝達式で述べる口上のような言葉が書かれた手紙を吉田司家に送った 。 横綱昇進後も持ち前の速攻で、栃木山守也と共に一時代を築いた。 1922年5月場所でも8勝1敗1分で優勝掲額を記録し、その翌場所の番付に名前を残した。しかし、三河島事件の調停に当たりながら内部で解決できなかったことに対して力士の頂点(横綱)に君臨する者として責任を感じ、日比谷の平野屋で行われた和解の宴の最中に隣室で自ら髷を落として廃業を表明した。手打ち式の最中に抜け出したと思いきや、髷を落として現れた大錦の姿に一同は驚嘆したといわれる。 まだ年齢的に衰えた訳でなく、現役を続行していれば優勝回数は稼げたと思われたが、現役中から引退後に親方へ就任する気は一切無かったことも関係して、周囲が引き止めることは出来なかった。 |