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第27代横綱 栃木山  守也  ( とちぎやま  もりや  ) タイム-ライン

基本情報

最高位 横綱
本名 横田 守也 → 中田 守也
生年月日 明治25年2月5日
出身地 栃木県
身長 体重 172.0センチ 104.0キロ
所属部屋 出羽海
改名歴 大正3年一月 栃木山 守也
明治44年二月 栃木山 専成
初土俵 明治44年二月
引退場所 大正14年五月
栃木県下都賀郡赤麻村(現:栃木県栃木市藤岡町赤麻)出身。第27代横綱。

17歳で結婚するが、18歳の時に妊娠中だった妻を残して上京し、出羽ノ海部屋に入門する。歴代横綱の中で、自ら志願して角界入りした者は非常に珍しい。入門の動機としては「鉱毒によって衰える郷里に絶望した」とも「親の決めた許婚者と性格が合わなかった」とも言われるが、栃木山自身が入門の経緯を最期まで話さなかったためはっきりしていない。

1911年2月場所に序ノ口で初土俵を踏むと負け知らずのまま番付を上げ、1913年5月場所の幕下まで21連勝を記録した。入幕までに喫した黒星は僅か3のスピード出世だったにも関わらず、栃木山の軽量さから出羽ノ海からもほとんど顧みられず、幕下にあがったころ稽古場で「あの小さいのえらく強いが、あんなのうちの部屋にいたか?」と言われたという逸話がある。

新小結に昇進した1916年5月場所8日目、当時56連勝中だった太刀山峯右エ門をもろ差しから一気に寄り切る殊勲の星を挙げ、号外が出るなど東京中が大騒ぎとなった。栃木山は勝利して花道を引き揚げる途中に背中へ百円紙幣が2枚貼られ、一晩の祝儀が1万2千円(当時)に達したが、場所後に仲間を引き連れて豪遊したために僅か3日で使い果たしたという。

翌1917年1月場所で新関脇。6勝3敗1休と勝ち越し、大関の大錦卯一郎が全勝優勝で場所後に横綱昇進し、同じ片屋に大関が不在になってしまうこともあって、同時に大関昇進を果たす。これは2019年現在まで、同部屋の力士が横綱大関に同時昇進を果たした最後の例になっている

1917年5月場所で大関に、1918年5月場所の横綱昇進を挟んで1919年1月場所まで5連覇を達成する。この大関昇進の場所が初優勝で、それから5場所連続優勝を入れて合計9回の優勝を成し遂げている。
大関昇進後はほぼ全ての場所で優勝争いに加わり、風邪で途中休場した1場所を除いて9場所で優勝、6場所で半星差の優勝次点、残る1場所は優勝力士との間に半星差の優勝次点力士を挟んで1勝差の3位相当だった。

1920年5月場所は8勝1分1預ながら、優勝者は9勝1敗の大錦、翌年1月場所も無敗だったが預り1つの差で大錦が優勝している。幕内の勝率は.878だが、横綱在位中の勝率は.935である。
栃木山以降で横綱での最終勝率が9割を超えた者は出ておらず、この安定感をもって近代最強力士に推す意見も多い。

横綱土俵入りは上げた四股の足を戻す際に両足に化粧廻しが挟まることが目立っていたようであり、腹が出ていないことでこうなりがちであったという分析も存在する。

1924年1月場所から1925年1月場所まで3場所連続優勝の後、次の5月場所直前に突然の引退を表明する。これについては、横綱として3連覇しながら張出のままとされた番付面での不満、頭髪の衰えを気にしてなどの諸説があるが、本人は「力が衰えてから辞めるのは本意ではない。今が華だと思うから」とだけ語った。

この引退は、「衰えを感じさせない鮮やかな引き際」として、現在まで横綱のあるべき姿としてよく例に引かれる。しかし、1923年9月1日に発生した関東大震災によって国技館が損失するなど相撲界が苦難の時期にあった当時、第一人者の突然の引退には「角界全体のことより自身の美意識を優先した身勝手な引退」との批判も強かった。まだ西ノ海嘉治郎(3代)・常ノ花寛市の二横綱が存在していたが栃木山は2人より圧倒的に強く、周囲は誰しも栃木山の引退には断固反対、中にはまだ5年は務まるとの声まであった。

対戦相手 取組数 勝ち 負け
44 22 1
清瀬川 13 8 2
三杉礒 12 9 1
千葉ヶ嵜 11 9 0
紅葉川 10 10 0
大戸平 9 8 0
黒瀬川 8 6 2
若葉山 7 7 0
阿久津川 7 5 1
矢筈山 7 7 0
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