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第31代横綱 常ノ花  寛市  ( つねのはな  かんいち  ) タイム-ライン

基本情報

最高位 横綱
本名 山野辺 寛一
生年月日 明治29年11月23日
出身地 岡山県
身長 体重 178.0センチ 112.0キロ
所属部屋 出羽海
改名歴 明治43年一月 常ノ花 寛市
初土俵 明治43年一月
引退場所 昭和5年十月
岡山県岡山市出身。第31代横綱。

1910年1月場所で初土俵を踏む。
決して力が強いわけではなく、栃木山守也よりは重いといっても細身で軽量なので、1917年5月場所で新入幕を果たしても横綱はおろか三役定着すら期待されていなかった。しかし、生来の負けん気の強さに加えて稽古熱心で、さらに数多くの稽古相手に恵まれた環境と常陸山の厳しくも熱心な指導によって順調に出世した。

1920年5月場所には大関に昇進するが、稽古中の負傷によって全休。次の場所では9勝1敗、その次の場所は10戦全勝で初優勝を果たし、通常なら横綱へ昇進する成績だった。
しかし、同じ方屋にはもう横綱の大錦・栃木山が存在しており、横綱は源氏山(昇進2場所目から3代西ノ海)に先を越された。
この悔しさを教訓にさらに稽古を繰り返し、1924年1月場所で8勝2敗、9勝1分の栃木山に次ぐ成績をあげて横綱へ昇進した。

1924年1月場所に、名古屋市中央区大池町の仮設国技館で行われた晴天10日間興業は、東京相撲が東京を離れて行う初めての興行であったが、この場所は連日満員であった。常ノ花は歴史的な意義のある場所で大勢の観客の応援の中、横綱昇進を果たしたということになる。大錦・3代西ノ海に次ぐ1910年1月場所初土俵の同期生から3人目の横綱であり、大錦とは史上3組しかいない同部屋同期生横綱となる。

新横綱の場所(1924年5月場所)では前場所優勝の先輩横綱栃木山を張出に回して正横綱におかれた。この後栃木山は1925年1月場所まで3連覇するが、5勝2敗2分1預、2敗9休(1休は現在なら不戦敗)の常ノ花が常に正横綱で栃木山は張出に据え置かれた。この栃木山にとっては不可解な番付編成が、1925年5月場所前の栃木山の突然の引退の一因ともされる。

1926年1月場所には2度目の全勝優勝を果たした。この場所から賜杯の贈呈が行われ始め、この場所から協会が正式に個人の優勝を制度として設定したとされている。ただしこの場所に渡されるはずであった賜杯は賜杯中央部分に皇室の菊の紋章が飾られていることから、皇室の『御紋章取締規則』に触れ、宮内庁から差し止めの命令が出た。協会は菊の紋章を除いた小型の模杯を至急作成し、常ノ花にこれを授与した。現在の天皇賜杯の菊花大銀杯は、差し預かりが解けた1928年1月場所優勝の常陸岩から授与された。

大坂相撲との合併が行われたあとの1927年1月場所は不振によって、大坂相撲から編入した宮城山福松に優勝を奪われたが、3月・5月・10月場所といずれも10勝1敗で三連覇を果たし、1928年5月場所は3度目の全勝優勝を果たして第一人者の地位を不動のものとした。

1929年9月場所には優勝したものの8勝3敗の成績で「3つも負けた者に天皇賜杯とは不敬」とする声が上がった。このため「3敗以上した場合はたとえ優勝しても賜杯の贈呈はしない」と規定が改定された。

しかし、さらなる飛躍が期待されている最中の1930年5月場所途中、突然の現役引退を表明した。引退後は年寄・藤島を襲名する。

対戦相手 取組数 勝ち 負け
105 28 15
清瀬川 21 14 5
三杉礒 18 12 4
豊國 17 9 7
能代潟 16 7 6
千葉ヶ嵜 13 6 6
若葉山 13 10 2
大蛇山 13 11 1
錦洋 12 8 4
琴ヶ浦 12 9 2
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