第17代横綱 小錦 八十吉 ( こにしき やそきち ) タイム-ライン
基本情報
最高位 | 横綱 |
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本名 | 岩井 八十吉 |
生年月日 | 慶応2年10月15日 |
出身地 | 千葉県 |
身長 体重 | 168.0センチ 143.0キロ |
所属部屋 | 高砂 |
改名歴 |
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初土俵 | 明治16年五月 |
引退場所 | 明治34年一月 |
土地相撲で岩城川と名乗って大関だった父親は何とか息子を力士にしたいと考え、1881年に佐倉へ巡業に来ていた土地相撲仲間の高見山宗五郎に頼んで入門させた。当初は厳しい稽古に耐え切れず2、3度実家へ逃げ帰ったが、父親の激励によって1883年に再入門を決意し、小錦の四股名で前相撲から取り直し、稽古に励んで順調に出世した。体力不足を猛稽古で補って三段目に昇進した頃から頭角を現した。 1888年5月場所の新入幕から足かけ4年で39連勝を達成し、その間に優勝相当成績を7回記録するなど、入幕当時の勢いは凄まじかった。1896年5月場所後に吉田司家から横綱免許を授与された時には史上初となる20代での授与だったが、既に全盛期を過ぎており、一度も優勝相当成績を残すことが出来なかった。この頃から師匠・高砂(高見山宗五郎)が脳を患っており、小錦がその面倒を見ていたことも影響したと言われる。その時の映像として、大砲万右エ門との取り組みに敗れ、大砲が笑顔を見せる映像が残されている。 1901年1月場所を最後に現役を引退して年寄・二十山を襲名、二十山部屋を創立した。年寄としては小錦八十吉(2代)・千葉ヶ嵜俊治などを育成した[3]。引退後も7年間は髷を付けたまま勝負検査役・取締役に就任し、その腰低く、誠実・真面目な人柄で平年寄と変わらぬ働き振りであったため、人望を集めた。1914年7月に高砂が死去したことで後継者に内定していたが、同年10月22日に死去、47歳没。「高砂」を正式に襲名する直前に死去したため、高砂の代数には数えられていない。没後、「高砂」は部屋頭の朝潮太郎(2代)が継いだ。
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