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第33代横綱 武藏山  武  ( むさしやま  たけし  ) タイム-ライン

基本情報

最高位 横綱
本名 横山 武
生年月日 明治42年12月5日
出身地 神奈川県
身長 体重 186.0センチ 116.0キロ
所属部屋 出羽海
改名歴 大正15年一月 武藏山 武
初土俵 大正15年一月
引退場所 昭和14年五月
神奈川県横浜市港北区出身。第33代横綱。

1926年1月場所に出羽海部屋から初土俵を踏む。
四股名は出身地からとって「武藏山」となった。

入門後は持ち前の力強さ、とりわけ右腕の強さを武器に新十両・新入幕・新三役で当時の最年少記録を樹立、年少記録が話題になった最初の力士でもある。
入幕までに全勝を5回(内3回は優勝)を記録するなど下積みの段階では図抜けた存在であった。また、当時のアメリカの映画スターだったゲイリー・クーパーにも喩えられた近代的な容貌と筋肉質の体型のために人気も上々で、武蔵山を題材にした応援歌まで作られ、特に朝潮供次郎との取組(1930年1月場所千秋楽)は松内則三による実況で両国国技館を18年ぶりに満員札止めにするなど、爆発的な人気を呼んだ。

この頃の相撲界は、太刀山、栃木山、大錦、常ノ花と間断なく強い横綱が土俵に君臨していたのにもかかわらず、それほど爆発的な人気を得ることがなかった大正時代の相撲界とは一線を画す様相を呈していた。
同年5月場所には小結へ昇進して天竜三郎と激しい大関昇進争いを繰り広げたが、玉錦三右エ門が強力な壁となって大事な場面ではいつも敗れていた。1931年3月場所では、勝利すれば全勝優勝を達成するところで再度敗れて両者とも10勝1敗、番付上位優勝制度で玉錦の優勝となった。

同年5月場所で玉錦に初めて勝利し、この場所は10勝1敗で悲願の幕内初優勝を果たした。結果的にこれが最初で最後の幕内最高優勝となった。1932年1月場所の番付では、小結・武藏山が関脇を飛び越して大関に昇進し、関脇・天竜はそのまま据え置き、前場所負け越した大関・大ノ里萬助が張出大関となった。そしてこの直後に天竜を首謀者とする春秋園事件が勃発し、武藏山も当初は脱退組に賛同したがすぐに脱落、すぐに協会復帰を表明すると同時に、2月の改定番付で帰参した。

ところが、前場所で沖ツ海から強烈なぶちかましを右肘に受けたことで、右肘が破壊されたまま骨折と半脱臼の重傷であることが判明した。
入門からこの時点まで右腕の怪力を最大の武器として出世した武藏山にとっては致命傷で、大関昇進以降はその後遺症に苦しんで充分に相撲が取れず、休場が相次いで優勝争いに加わることすら出来なかった。

それでも1935年1月場所千秋楽には初の全勝優勝を狙う玉錦を阻んで8勝2敗1分、次の5月場所では9勝2敗の好成績で、同場所後に第33代横綱に昇進した。 横綱昇進後は前述の肘の故障がさらに悪化、さらに胃酸過多症もあって休場ばかりで、皆勤したのは1938年5月場所のみ、それも6勝6敗同士の横綱対決が千秋楽に行なわれる悲惨なものだった。武藏山は勝利して勝ち越したものの、対戦相手の男女ノ川登三は敗れて負け越しとなった。
これが、かつて両國國技館を沸かせた両者の最後の対戦となったのは皮肉で、武藏山の幕内最高優勝は小結時代の1回のみで、右肘の故障が無ければもっと活躍できたと思われる。さらに、横綱時代には最長で4連勝しか達成できず(2013年現在までの最少記録)、番付でも東の正横綱の地位に就くことは最後まで出来なかった。横綱在位3場所目で2回以上の休場は昭和以降初で、横綱在位3場所目で皆勤無しは昭和以降唯一。

新入幕から横綱昇進までは一度も負け越したことが無く、幕内通算勝率が7割を超えるのに対して、横綱時代の成績はちょうど5割、休場の多さもあって苦闘を物語る数字であり、まさに「悲劇の横綱」だった。武藏山は1939年5月場所を最後に現役を引退し、年寄・出来山(後に不知火)を襲名したものの、1945年には角界を離れた。

対戦相手 取組数 勝ち 負け
51 43 7
清水川 19 11 8
能代潟 18 13 5
幡瀬川 18 14 4
玉錦 16 5 11
男女ノ川 15 10 5
鏡岩 11 10 1
若葉山 11 11 0
雷ノ峰 10 9 1
古賀ノ浦 10 8 2
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