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第19代横綱 常陸山  谷右エ門  ( ひたちやま  たにえもん  ) タイム-ライン

基本情報

最高位 横綱
本名 市毛 谷 → 市毛 谷右衛門
生年月日 明治7年1月19日
出身地 茨城県
身長 体重 175.0センチ 146.0キロ
所属部屋 出羽海
改名歴 明治27年一月 常陸山 谷右エ門
明治25年六月 御西山
初土俵 明治25年六月
引退場所 大正3年五月
1892年6月場所において「御西山」の名で初土俵を踏む。四股名は徳川光圀の隠居地だった西山に因んで名付けられた。
1894年1月、出羽ノ海の現役時代の四股名を継ぎ「常陸山」に改名。1895年6月場所で幕下に進むが初めて負け越したほか、出羽ノ海の姪と交際したものの破談となったことで部屋での立場が狭くなっていき、当時の常陸山の奔放な気質も相まって、神戸での巡業中に立ち寄った居酒屋で高砂部屋の三段目に所属していた鬼ヶ島から誘われて脱走した。
名古屋相撲から1896年に大坂相撲・廣角組に加入したが、廣角組が帰参した時には番付外で出場し、のちに広島相撲へ加入して脱走の原因の1つだった借金を豪商に精算してもらい、1897年に東京相撲へ帰参した。出羽ノ海は常陸山の帰参に激怒するどころか涙を流して喜び、高砂への取り成しを引き受けて帰参が許され、通常は厳罰として番付が降下するところを幕下格・番付外付け出しに留まらせるなど、破格の待遇を得た。
復帰後は快進撃を続け、1899年1月場所で新入幕を果たすと8勝1分(無敗)の優勝相当成績を挙げる。1901年1月場所では関脇に昇進し、8勝1分で2度目の優勝相当成績を挙げ、大関に昇進。1903年1月場所はまたも1分無敗で3度目の優勝相当成績を挙げ、綱取りとなる5月場所は全勝のまま、9日目に梅ヶ谷藤太郎との全勝対決となった。立ち上がるや梅ヶ谷がもろ差しになり、常陸山は両閂になるも、梅ヶ谷は寄り進んで常陸山を土俵際に追い詰めた。土俵に詰まった常陸山は左右に振って右へ回り込み、左からおっつけて突き放し、そのまま突き続けて最後は迫撃の押しで正面土俵へ突き倒した。
この勝利によって全勝での優勝相当成績を挙げ、場所後に吉田司家から横綱免許の授与が決まった。ところが、常陸山はすぐに横綱昇進を承諾することなく考えた後、全勝対決で敗ったものの自身と同じ強さで観客を沸かせた梅ヶ谷の健闘を称え、「できれば、梅ヶ谷関と一緒に昇進をお願いします」と申し出た。しかし、当時は常陸山・梅ヶ谷が揃って横綱に昇進した場合、現役横綱の大砲万右エ門を入れて3横綱とバランスの悪い状態となってしまうため、協会も神経を使って正式に申請する前に、吉田司家で番頭役を担当していた清田直に取り次いで依頼した。その結果、常陸山・梅ヶ谷の同時昇進が認められたことで常陸山の器の大きさ・寛大な心が知れ渡ると同時に、歴代横綱としては常陸山が先であるという見方が存在したという。現在のように横綱が称号ではなく地位として確立されたのは、実質的にはこの常陸山・梅ヶ谷の同時昇進だったとされ、1909年から正式に規約が改正された。
梅ヶ谷藤太郎と競い合って精進し、揃って横綱に昇進したことから「梅常陸時代」と呼ばれ、明治時代後期の相撲黄金時代を築いた。

対戦相手 取組数 勝ち 負け
148 8 5
梅ヶ谷 16 7 3
國見山 14 9 0
海山 14 11 2
緑嶌 12 8 1
太刀山 11 4 3
谷ノ音 10 9 0
玉椿 10 6 0
鶴ヶ濱 9 9 0
大砲 8 2 0
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